『津軽三味線ひとり旅』(高橋 竹山)
三味線で苦労するのは音色だ。音色にもいいわるいがある。どうすればいい音がでるかということは、やはり勉強だ。これだけは習ったってできるものでない。
手はならうことができてもいい音を出すのは
その人の力と、考えと仕事で研究しなければならないことだ。
三味線の音色は、自分の気持ちと指でつくっていくものだ。気持ちと指と一致させるのがたいへんだ。音はおなじ師匠から習っておなじ手でも人によってちがう。そこが面白いところだ。
師匠から習ったことばかりで、いいというものではない。師匠のいい音色を頭にいれるということは、これは音だから眼でみてわかるものでない。
師匠はいくら上手でも筋道しか教えられないし、また、上手は習われるものでない。それは自分でやることだ。師匠というものはまちがいのない基本を正しく教えれば、いい師匠だ。
学校の先生も同じだと思う。先生のように生徒にやれ、といってもできるものでない。基本をしっかり覚えれば、あとはその生徒に頭があれば、先生以上にやりたければやればいい。その筋を忘れないで勉強させれば教わったものは生きた力をだしていく。
芸もその通り、師匠の教えた筋、規則を守らないで、早くうまくなろうと思って基本からはずれたり、自分のやりやすいものをやるのではろくなものにならない。そういうのはいつまでたっても同じで、なるほどというところがないもなくて終わってしまう。
才能のある人は、同じに習ってもたいへんうまく師匠から習った型を生かしてやる。才能のない人は師匠から型を習っても、型を忘れてしまって手前勝手にやる。
こうした人はうんと努力しているのに何年やっても上達しない。どうでも努力すればいいといういものではない。
弟子と師匠というものの間柄というものは、商売一代の飯の種をわけてもらうのだから、命の親、性格の親だ、考えようによっては生みの親より大切だ。生みの親は子供をうんで育てるが、それから女房もらって世の中に闘っていくだけの商売をわけてもらうんだから、それを考えれば師匠というものはだいじなもんだ。
いい耳になる勉強は、いい音をきくしかない。いいものをきくといいなと、その音に
心がむくが、いまの人はまちがいなくひいたかどうかばかりみて、音色や気持ちのことはあまり思わない。
音色のことを考えれば三味線は今日一曲覚えて、明日別な曲をというふうにはやれないはずだ。耳について神経のない人はなんでもすぐ変わった曲を覚えたがる。一カ月に二曲も三曲も覚えたといって自慢している人もいるが、それは数を覚えただけだ。そんなもの舞台でやったってだれもきく人がない。
一つの極をじっくりやって新しい曲になかなかすすまない人もある。しかし結局上達するのはその人のほうが早いし、なによりも人がきく。人がきける仕事をするもんだ。
何年やったって完璧にやれるといいうことはない。やれることを一生懸命やって、やれないことはやれないとはっきり自覚すればいいんだ。
やれないといったところで罰金をとられるわけでない。やれる人にやってもらえばいい。ところがなにもやれないくせに、はっきりやれないというのが好きでない人がいる。そういうのに限って自分の仕事でも無責任きわまる、勉強もしない。それほど自分をみる眼がないんだ。
自分はやれないと思えばこそ、勉強もするんだ。恥ずかしいといいながら、あまり本気で勉強もしない。だから上達しない。
(これって、相場道そのものだなぁ)